2010年 01月 10日
バッハ音律に関して(響きの考古学から) |
2月9日に自由学園明日館にて開催される「バッハ音律で聴く植物文様クラヴィーア曲集」の公演に先立って、2007年に平凡社ライブラリーから出版された「響きの考古学」からバッハ音律に関する箇所を抜き出してみました。参考にしていただけたら幸いです。
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音律の謎解き〜《平均律クラヴィーア曲集》の解読に向けて
これまでは、ヴェルクマイスターによって《平均律クラヴィーア曲集》が演奏されていたのではというのがひとつの仮説だった。しかしながら、いったいどのような調律法で演奏されたのかが大きな謎であった。このような状況になかで、最近、発表されたひとつの論文が大きな話題となっている。2005年の2月、古楽専門誌《アーリー・ミュージック》(Oxford University Press)に掲載されたアメリカのハープシコード奏者、ブラドリー・レーマンによる「バッハの驚くべきテンペラメント 現代のロゼッタ・ストーン」というその論文は、これまでの学説とは異なる観点からバッハのテンペラメントの解読に迫っている。
レーマンが着目したのは、1722年の《クラヴィーア曲集第一巻》の自筆譜の表紙である。その表紙には「Das wohltemperierte Clavier」という題名が記されているが、その題名の文字を飾るかのように、そのうえにいくつかの渦巻き文様が一筆書きで描かれている。いままでは、この渦巻き文様は、たんに装飾的な要素にすぎないとみなされてきたが、レーマンは、文様のなかにテンペラメントを解読する手がかりがあると推察したのである。
渦巻き文様を描いた筆の運びをみてみると、その文様が描かれたあとに逆さまにしたようにみえる。そして、題名の「Clavier」の頭文字の「C」とほぼ同じ位置に「C」という文字が文様のなかに織り込まれている。この「C」は、音高「C」の位置を示しているのではないかとレーマンは考えた。つまり、五度圏の円環上に並んだ12個の音高の配列がこの渦巻き文様の線上に写し換えられているというのである。すると、左端にF音が位置し、C音は、ひとつの渦巻き文様をはさんでF音の右隣りに位置する。このように全部で11個ある渦巻き文様を挟みながら、五度圏内の12個すべての音高が並ぶことになる。
レーマンは、さらに、渦巻きの形状と数、配列などを丹念に読み解き、逆さにした文様の配列は、左から三重の渦巻きが5個、一重の渦巻きが3個、そして二重の渦巻きが3個となっていると指摘している。この三種類からなる全部で11個の渦巻き文様は、いったい何を意味するのだろうか。レーマンの推理は、さらに続く。これらの渦巻きの形状と数、配列は、ピタゴラス・コンマ(=24セント)を五度圏上の音程のなかで分配の方法を示唆しているのではないか。すなわち、純正五度から1/6コンマ(=4セント)減じた五度音程を三重の渦巻きが表し、そのままの純正五度音程を一重の渦巻きが、そして、1/12コンマ(=2セント)減じた五度音程を二重の渦巻きが表しているのだという。そして、渦巻き文様の線上の両端に位置するF音とA#(B♭)音は、1/12コンマ(=2セント)増した五度音程になるという。
バッハが《平均律クラヴィーア曲集》に適用されるテンペラメントの方法を詳細な説明や具体的な数値によって指示するのでなく、渦巻き文様として図示しようとしたのはなぜなのか。レーマンによれば、このように図示することによってテンペラメントの方法を一目で把握したり、覚えることができるという実践的な面をバッハが好む傾向にあったという。実際に、バッハはハープシコードの調律をたったの15分で仕上げたしまったということが語り継がれている。このようなテンペラメントの方法の図示によって、より簡便な調律の作業を終えることができる。ちなみに、もし、現代の平均律によって調律しようとしたら、こんなに短時間で行なうことは無理だといわれている。また、ある秩序やルールを形や図像のなかに暗示するというやり方は、《音楽の捧げもの》のなかにおさめられた謎解きとしての「カノン」や《フーガの技法》における自らのB-A-C-Hの音名による主題にもつながるバッハの思考の一端をあらわしている。
レーマン自身、渦巻き文様から《平均律クラヴィーア曲集》のテンペラメントのメカニズムを発見したときの興奮を伝えるとともに、このテンペラメントによって実際にハープシコードを調律したときに得られた響きの豊かさ、固有性にも言及している。レーマンの渦巻き文様からのテンペラメントの解読は、推察の域を出ていないという意見もあり、現在、レーマンの解読によるテンペラメントを採用した実際の演奏による検証作業が行なわれたり、さまざまな反論も寄せられているという。しかしながら、ここで重要なのは、レーマンの解読がたんにバッハ音楽の演奏解釈における時代考証のレベルに留めてはいけないということなのである。つまり、バッハ自身が当時のテンペラメントという音律の問題に深く傾倒し、自らの《平均律クラヴィーア曲集》に対して自発的に独自のテンペラメントを考案しようとした事実に着目しなくてはいけない。
与えられた基準としての音律をそのまま受け継ぐのではなく、自らが考案したテンペラメントという音律を実際の音楽に運用することによって、そこから、どのような調性感の差異が生まれ、そして独特の響きが立ち現れてくるのか。ちょうど、料理人が自らのレシピーをかんたんには明かさないように、バッハも自らのテンペラメントというレシピーを渦巻き文様のなかにそっと忍び込ませ、そして、若い音楽家たちにそれレシピーを伝えようとしたのかもしれない。《平均律クラヴィーア曲集》は、まさに、バッハ特製のオリジナル・レシピーであるテンペラメントと一体となった存在だった。
バッハの自筆譜の表紙を飾る渦巻きは、音律によってもたらさせる響きや抑揚の多様性が個人の音楽思考や実践のなかで展開することの重要性を現代のわれわれに伝えているように思えるのである。
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音律の謎解き〜《平均律クラヴィーア曲集》の解読に向けて
これまでは、ヴェルクマイスターによって《平均律クラヴィーア曲集》が演奏されていたのではというのがひとつの仮説だった。しかしながら、いったいどのような調律法で演奏されたのかが大きな謎であった。このような状況になかで、最近、発表されたひとつの論文が大きな話題となっている。2005年の2月、古楽専門誌《アーリー・ミュージック》(Oxford University Press)に掲載されたアメリカのハープシコード奏者、ブラドリー・レーマンによる「バッハの驚くべきテンペラメント 現代のロゼッタ・ストーン」というその論文は、これまでの学説とは異なる観点からバッハのテンペラメントの解読に迫っている。
レーマンが着目したのは、1722年の《クラヴィーア曲集第一巻》の自筆譜の表紙である。その表紙には「Das wohltemperierte Clavier」という題名が記されているが、その題名の文字を飾るかのように、そのうえにいくつかの渦巻き文様が一筆書きで描かれている。いままでは、この渦巻き文様は、たんに装飾的な要素にすぎないとみなされてきたが、レーマンは、文様のなかにテンペラメントを解読する手がかりがあると推察したのである。
渦巻き文様を描いた筆の運びをみてみると、その文様が描かれたあとに逆さまにしたようにみえる。そして、題名の「Clavier」の頭文字の「C」とほぼ同じ位置に「C」という文字が文様のなかに織り込まれている。この「C」は、音高「C」の位置を示しているのではないかとレーマンは考えた。つまり、五度圏の円環上に並んだ12個の音高の配列がこの渦巻き文様の線上に写し換えられているというのである。すると、左端にF音が位置し、C音は、ひとつの渦巻き文様をはさんでF音の右隣りに位置する。このように全部で11個ある渦巻き文様を挟みながら、五度圏内の12個すべての音高が並ぶことになる。
レーマンは、さらに、渦巻きの形状と数、配列などを丹念に読み解き、逆さにした文様の配列は、左から三重の渦巻きが5個、一重の渦巻きが3個、そして二重の渦巻きが3個となっていると指摘している。この三種類からなる全部で11個の渦巻き文様は、いったい何を意味するのだろうか。レーマンの推理は、さらに続く。これらの渦巻きの形状と数、配列は、ピタゴラス・コンマ(=24セント)を五度圏上の音程のなかで分配の方法を示唆しているのではないか。すなわち、純正五度から1/6コンマ(=4セント)減じた五度音程を三重の渦巻きが表し、そのままの純正五度音程を一重の渦巻きが、そして、1/12コンマ(=2セント)減じた五度音程を二重の渦巻きが表しているのだという。そして、渦巻き文様の線上の両端に位置するF音とA#(B♭)音は、1/12コンマ(=2セント)増した五度音程になるという。
バッハが《平均律クラヴィーア曲集》に適用されるテンペラメントの方法を詳細な説明や具体的な数値によって指示するのでなく、渦巻き文様として図示しようとしたのはなぜなのか。レーマンによれば、このように図示することによってテンペラメントの方法を一目で把握したり、覚えることができるという実践的な面をバッハが好む傾向にあったという。実際に、バッハはハープシコードの調律をたったの15分で仕上げたしまったということが語り継がれている。このようなテンペラメントの方法の図示によって、より簡便な調律の作業を終えることができる。ちなみに、もし、現代の平均律によって調律しようとしたら、こんなに短時間で行なうことは無理だといわれている。また、ある秩序やルールを形や図像のなかに暗示するというやり方は、《音楽の捧げもの》のなかにおさめられた謎解きとしての「カノン」や《フーガの技法》における自らのB-A-C-Hの音名による主題にもつながるバッハの思考の一端をあらわしている。
レーマン自身、渦巻き文様から《平均律クラヴィーア曲集》のテンペラメントのメカニズムを発見したときの興奮を伝えるとともに、このテンペラメントによって実際にハープシコードを調律したときに得られた響きの豊かさ、固有性にも言及している。レーマンの渦巻き文様からのテンペラメントの解読は、推察の域を出ていないという意見もあり、現在、レーマンの解読によるテンペラメントを採用した実際の演奏による検証作業が行なわれたり、さまざまな反論も寄せられているという。しかしながら、ここで重要なのは、レーマンの解読がたんにバッハ音楽の演奏解釈における時代考証のレベルに留めてはいけないということなのである。つまり、バッハ自身が当時のテンペラメントという音律の問題に深く傾倒し、自らの《平均律クラヴィーア曲集》に対して自発的に独自のテンペラメントを考案しようとした事実に着目しなくてはいけない。
与えられた基準としての音律をそのまま受け継ぐのではなく、自らが考案したテンペラメントという音律を実際の音楽に運用することによって、そこから、どのような調性感の差異が生まれ、そして独特の響きが立ち現れてくるのか。ちょうど、料理人が自らのレシピーをかんたんには明かさないように、バッハも自らのテンペラメントというレシピーを渦巻き文様のなかにそっと忍び込ませ、そして、若い音楽家たちにそれレシピーを伝えようとしたのかもしれない。《平均律クラヴィーア曲集》は、まさに、バッハ特製のオリジナル・レシピーであるテンペラメントと一体となった存在だった。
バッハの自筆譜の表紙を飾る渦巻きは、音律によってもたらさせる響きや抑揚の多様性が個人の音楽思考や実践のなかで展開することの重要性を現代のわれわれに伝えているように思えるのである。
by mamorufujieda
| 2010-01-10 15:40
| 原稿など