2008年 03月 03日
スパイラル声明公演「砂のマンダラ」 |
すっかり、ブログご無沙汰でした。
3月1-2日とスパイラルでの声明シリーズの公演「砂のマンダラ」があり、《夜の歌》が上演されました。この作品は、15年前のもので、1993年に国立劇場で初演され、2-3年まえに金沢21世紀美術館で《夜の歌〜珪藻土からの儀礼歌》として再演されました。今回は、金沢21世紀版に基づいて、スパイラル版として、ジョン・ケージの《龍安寺》を組み込むかたちで上演されました。
ナバホの砂絵に基づき、演奏家が舞台上の砂絵の図像になりように進行していきます。スパイラル・ホールの真ん中に舞台を設定。観客がその砂絵となった舞台を取り囲むような公演となりました。2日とも満員でした。丸い水槽に沈めた珪藻土からの「微かな音」から始まり、お坊さんたちによる風の音のような無声音がその音に同調し、次第に声や音が高まったいくような90分くらいの舞台となりました。
以下が公演情報:
■■■スパイラル「聲明」コンサートシリーズvol.16 砂のマンダラ「夜の歌-龍安寺」
「砂のマンダラ」は、私達の通り兄弟、ネイティヴ・アメリカンの親和と砂絵をモチーフにした「夜の歌」と究極の禅庭を音で表した「龍安寺」。この二作を仏教法用の最も古い形式である四箇法用にあてはめ、全体が構成されている。
●日時:2008年3月1日(土)3月2日(日)
●会場:スパイラルホール(青山スパイラル3F)
●声明の会・千年の聲 ●構成・演出:田村博巳
「夜の歌」作曲:藤枝守 (声、吹物、打物、弾物、呪文)
「龍安寺」作曲:ジョン・ケージ(声明、パーカッション)
・演奏:高田みどり、西陽子、石川高
写真はゲネプロの模様です。また、珪藻土もこのように水中マイクから音を取り出しました。
また、当日配布されたプログラムに記載された文章も紹介しておきます。
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「呼吸」から始まる〜《夜の歌》スパイラル・ヴァージョンへ向けて
藤枝守
アメリカの女性作曲家、ポーリン・オリヴェロスは、「聴くこと」に基づいて考案した演習の方法を『ソニック・メディテーション』としてまとめています。そのタイトルが示すように、「音に集中する」ことによって「聴くこと」が深まり、その過程になかで自分自身の身体や他者の存在、環境の変容などへの多様な「気づき」を広げていくための方法が記されています。
『ソニック・メディテーション』では、はじめのページに「呼吸の循環を観察することから始まるように考案されている」と書かれています。いっけん、「聴くこと」と「呼吸をすること」は、関係のないようにみえます。しかしながら、自らの呼吸を整え、その行為を観察していくうちに、しぜんに呼吸が深くなり、それにともなって、いままで気づかなかったちょっとした周囲の変化が音として耳に入ってくるのです。このように呼吸への注意は、呼吸そのものを変化させます。そして、呼吸の変化を通じて「聴く」という行為がさらに鋭敏なものになり、身体の微細なゆらぎを感じたり、他者との一体感をともなったコミュニケーションが可能となるのです。
このようなオリヴェロスの『ソニック・メディテーション』の演習を実際に実践することによって、呼吸がさまざまな感覚に作用することを実感しました。そして、呼吸が「喉の震え」としての声を生み出す力なのだという当然のことにも気づかされたのです。呼吸のなかでひとつに結ばれる「耳」と「喉」という二つの器官。「聴くこと」と「発すること」との相互的な連関のなかで、われわれは世界とつながり合うことができるような気がします。
ナバホの儀礼歌に基づく劇場作品《夜の歌》では、以下のような呪文のコトバが繰り返して唱えられていきます。
オホホホ ヘヘヘ ヘイヤ ヘイヤ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
ホワニ ホウ オウオウ オエ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
『アメリカ・インディアンの口承詩—魔法としての言葉』より
(金関寿夫著、平凡社ライブラリー)
この呪文のコトバは、アメリカの現代詩人、ジェローム・ローゼンバーグがナバホの口承詩に基づいてテキストとして書き写したもので、さらにそのテキストが金関寿夫によってカタカナ表記されました。このような「意味のないコトバ」のことを、金関寿夫は「魔法のコトバ」、あるいは「超言語」と呼び、「精神の最も奥深いところで交信を可能とする言語」であるともいっています。さらに、人類学者のマリノフスキーの言葉を紹介しながら、「魔法は呼吸のなかにこそあり、呼吸こそが魔法である」ともつけ加えています。
呼吸のなかに宿る「魔法」。それを外在化したのが、まさに「意味のないコトバ」としての呪文だったのでしょう。では、その「意味のないコトバ」をどのように「喉の震え」にしていくのか。じつは、《夜の歌》の作曲における僕の作業とは、呼吸に基づきながら、この「意味のないコトバ」をコエやオトに転化していく段取りを決めていくことだったのです。
中央に位置する舞台の四隅に座わる「四つの声」という存在。呼吸を意識しながら、その呼吸からどのように喉を震わせていくのかというプロセスだけを「四つの声」に課しました。その「四つの声」の傍らには、伊藤公象による陶造形作品の断片である焼成した「珪藻土」の塊が水のなかに沈められて置かれています。珪藻類とよばれる植物プランクトンの堆積から生まれた珪藻土は、その超多孔質な塊のなかに蓄えた空気を水のなかではき出しつづけ、微かな「息の音」をしずかに持続させます。その「珪藻土の息」に耳をかたむけ、その音に同調することによって「四つの声」の喉がしだいに開かれていきます。そして、「四つの声」の響きによって満たされた舞台のうえで「夜の歌」のテキストである「意味のないコトバ」は、さまざまに重なり合い、呼び交わされ、しだいに増幅の度合いを高めていきます。
最後のシーンにおいて、「意味のないコトバ」がしずかに収束していくなかで、箏の演奏による《植物文様》の繰り返されるフレーズにのって「すべて 生きるものに いのちを吹き込むのは 風」というネイティヴ・アメリカンの詩が詠唱されます。その詩は、「体内の風 吹き止むとき ひとは言葉を失い そして 死ぬ」と続いていきます。まさに、呼吸という循環こそが「生きること」と同義であること。そして、体内の風に耳をかたむけ、体内の風によって喉を震わせて「生きること」が実感されるのです。
1993年に国立劇場で初演された《夜の歌》は、その後、湘南台文化センターや金沢21世紀美術館において、その姿を大きく変容させて再演されました。今回のスパイラル・ヴァージョンが4回目の上演となります。とくに、今回の上演では、《夜の歌》の構造的なモデルとなっている「砂絵」のなかにジョン・ケージの《龍安寺》を取り囲むようなかたちとなっています。《夜の歌》の「砂絵」から巻き起こった「体内の風」がどのように《龍安寺》の石庭のうえに吹き込んでいくのでしょうか。
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3月1-2日とスパイラルでの声明シリーズの公演「砂のマンダラ」があり、《夜の歌》が上演されました。この作品は、15年前のもので、1993年に国立劇場で初演され、2-3年まえに金沢21世紀美術館で《夜の歌〜珪藻土からの儀礼歌》として再演されました。今回は、金沢21世紀版に基づいて、スパイラル版として、ジョン・ケージの《龍安寺》を組み込むかたちで上演されました。
ナバホの砂絵に基づき、演奏家が舞台上の砂絵の図像になりように進行していきます。スパイラル・ホールの真ん中に舞台を設定。観客がその砂絵となった舞台を取り囲むような公演となりました。2日とも満員でした。丸い水槽に沈めた珪藻土からの「微かな音」から始まり、お坊さんたちによる風の音のような無声音がその音に同調し、次第に声や音が高まったいくような90分くらいの舞台となりました。
以下が公演情報:
■■■スパイラル「聲明」コンサートシリーズvol.16 砂のマンダラ「夜の歌-龍安寺」
「砂のマンダラ」は、私達の通り兄弟、ネイティヴ・アメリカンの親和と砂絵をモチーフにした「夜の歌」と究極の禅庭を音で表した「龍安寺」。この二作を仏教法用の最も古い形式である四箇法用にあてはめ、全体が構成されている。
●日時:2008年3月1日(土)3月2日(日)
●会場:スパイラルホール(青山スパイラル3F)
●声明の会・千年の聲 ●構成・演出:田村博巳
「夜の歌」作曲:藤枝守 (声、吹物、打物、弾物、呪文)
「龍安寺」作曲:ジョン・ケージ(声明、パーカッション)
・演奏:高田みどり、西陽子、石川高
写真はゲネプロの模様です。また、珪藻土もこのように水中マイクから音を取り出しました。
また、当日配布されたプログラムに記載された文章も紹介しておきます。
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「呼吸」から始まる〜《夜の歌》スパイラル・ヴァージョンへ向けて
藤枝守
アメリカの女性作曲家、ポーリン・オリヴェロスは、「聴くこと」に基づいて考案した演習の方法を『ソニック・メディテーション』としてまとめています。そのタイトルが示すように、「音に集中する」ことによって「聴くこと」が深まり、その過程になかで自分自身の身体や他者の存在、環境の変容などへの多様な「気づき」を広げていくための方法が記されています。
『ソニック・メディテーション』では、はじめのページに「呼吸の循環を観察することから始まるように考案されている」と書かれています。いっけん、「聴くこと」と「呼吸をすること」は、関係のないようにみえます。しかしながら、自らの呼吸を整え、その行為を観察していくうちに、しぜんに呼吸が深くなり、それにともなって、いままで気づかなかったちょっとした周囲の変化が音として耳に入ってくるのです。このように呼吸への注意は、呼吸そのものを変化させます。そして、呼吸の変化を通じて「聴く」という行為がさらに鋭敏なものになり、身体の微細なゆらぎを感じたり、他者との一体感をともなったコミュニケーションが可能となるのです。
このようなオリヴェロスの『ソニック・メディテーション』の演習を実際に実践することによって、呼吸がさまざまな感覚に作用することを実感しました。そして、呼吸が「喉の震え」としての声を生み出す力なのだという当然のことにも気づかされたのです。呼吸のなかでひとつに結ばれる「耳」と「喉」という二つの器官。「聴くこと」と「発すること」との相互的な連関のなかで、われわれは世界とつながり合うことができるような気がします。
ナバホの儀礼歌に基づく劇場作品《夜の歌》では、以下のような呪文のコトバが繰り返して唱えられていきます。
オホホホ ヘヘヘ ヘイヤ ヘイヤ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
ホワニ ホウ オウオウ オエ
エオ ラド エオ ラド エオ ラド ナセ
『アメリカ・インディアンの口承詩—魔法としての言葉』より
(金関寿夫著、平凡社ライブラリー)
この呪文のコトバは、アメリカの現代詩人、ジェローム・ローゼンバーグがナバホの口承詩に基づいてテキストとして書き写したもので、さらにそのテキストが金関寿夫によってカタカナ表記されました。このような「意味のないコトバ」のことを、金関寿夫は「魔法のコトバ」、あるいは「超言語」と呼び、「精神の最も奥深いところで交信を可能とする言語」であるともいっています。さらに、人類学者のマリノフスキーの言葉を紹介しながら、「魔法は呼吸のなかにこそあり、呼吸こそが魔法である」ともつけ加えています。
呼吸のなかに宿る「魔法」。それを外在化したのが、まさに「意味のないコトバ」としての呪文だったのでしょう。では、その「意味のないコトバ」をどのように「喉の震え」にしていくのか。じつは、《夜の歌》の作曲における僕の作業とは、呼吸に基づきながら、この「意味のないコトバ」をコエやオトに転化していく段取りを決めていくことだったのです。
中央に位置する舞台の四隅に座わる「四つの声」という存在。呼吸を意識しながら、その呼吸からどのように喉を震わせていくのかというプロセスだけを「四つの声」に課しました。その「四つの声」の傍らには、伊藤公象による陶造形作品の断片である焼成した「珪藻土」の塊が水のなかに沈められて置かれています。珪藻類とよばれる植物プランクトンの堆積から生まれた珪藻土は、その超多孔質な塊のなかに蓄えた空気を水のなかではき出しつづけ、微かな「息の音」をしずかに持続させます。その「珪藻土の息」に耳をかたむけ、その音に同調することによって「四つの声」の喉がしだいに開かれていきます。そして、「四つの声」の響きによって満たされた舞台のうえで「夜の歌」のテキストである「意味のないコトバ」は、さまざまに重なり合い、呼び交わされ、しだいに増幅の度合いを高めていきます。
最後のシーンにおいて、「意味のないコトバ」がしずかに収束していくなかで、箏の演奏による《植物文様》の繰り返されるフレーズにのって「すべて 生きるものに いのちを吹き込むのは 風」というネイティヴ・アメリカンの詩が詠唱されます。その詩は、「体内の風 吹き止むとき ひとは言葉を失い そして 死ぬ」と続いていきます。まさに、呼吸という循環こそが「生きること」と同義であること。そして、体内の風に耳をかたむけ、体内の風によって喉を震わせて「生きること」が実感されるのです。
1993年に国立劇場で初演された《夜の歌》は、その後、湘南台文化センターや金沢21世紀美術館において、その姿を大きく変容させて再演されました。今回のスパイラル・ヴァージョンが4回目の上演となります。とくに、今回の上演では、《夜の歌》の構造的なモデルとなっている「砂絵」のなかにジョン・ケージの《龍安寺》を取り囲むようなかたちとなっています。《夜の歌》の「砂絵」から巻き起こった「体内の風」がどのように《龍安寺》の石庭のうえに吹き込んでいくのでしょうか。
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by mamorufujieda
| 2008-03-03 21:50
| 公演/イベント