2006年 07月 29日
金関寿夫 |
今週、やっと大学のクラスも終えて、ほっとした感じで東京に戻ってきました。福岡からの最終便なので家に着くのは、深夜の12時過ぎ。いつものようにメールボックスをのぞくと、一冊の雑誌が入ってました。金関寿夫先生の奥様の都子さんから送られた『考える人:戦後日本の「考える人」100人100冊』でした。そのなかに、1ページにわたって金関先生の紹介文と自宅書斎でのお写真が掲載されていました。「十回めの命日を迎えて偶然こんなものが現れました。「僕まだいるヨ」というメッセージのようです」という都子さんが書き添えたハガキが、そのページに挟み込まれていました。
その金関先生の写真をみながら、また、その紹介文をよみながら、いろんなことが思いだされました。初めて、金関先生にお会いしたのは、1992年ころでした。当時、国立劇場からシアターピースを依頼され、「夜の歌」というネイティヴ・アメリカンのテキストを使うことになりました。その当時は、それほど、ネイティヴ・アメリカンに関心が強かったわけでもありません。ただし、アメリカ留学中に、そのころサンタフェに住んでいた作曲家のピーター・ガーランドを訪ねたことがあり、そのおりに彼とともにネイティヴ・アメリカンの遺跡にいったり、ポピ族が居住するセカンド・メサとよばれるところでバラフライ・ダンスをみにいったことがありました。「夜の歌」のテキストをよみながら、そのときの光景が鮮明に浮かんできたのです。
この「夜の歌」のカタカナ表記のテキストが掲載されていたのが、金関先生の『魔法としてのコトバ』という本でした。この本は、いまでも、僕のそばにあります。そして「夜の歌」について詳しくきこうと思い、成城にある金関先生の自宅を訪ねたことがありました。そんな経緯があって、金関先生とおつきあいすることになったのです。
もし、金関先生に知り合うことがなかったら、《今日は死ぬのにもってこいの日》という曲も生まれなかったでしょう。
また、金関先生については、なにか書き留めたいと思ってますーー。
その金関先生の写真をみながら、また、その紹介文をよみながら、いろんなことが思いだされました。初めて、金関先生にお会いしたのは、1992年ころでした。当時、国立劇場からシアターピースを依頼され、「夜の歌」というネイティヴ・アメリカンのテキストを使うことになりました。その当時は、それほど、ネイティヴ・アメリカンに関心が強かったわけでもありません。ただし、アメリカ留学中に、そのころサンタフェに住んでいた作曲家のピーター・ガーランドを訪ねたことがあり、そのおりに彼とともにネイティヴ・アメリカンの遺跡にいったり、ポピ族が居住するセカンド・メサとよばれるところでバラフライ・ダンスをみにいったことがありました。「夜の歌」のテキストをよみながら、そのときの光景が鮮明に浮かんできたのです。

もし、金関先生に知り合うことがなかったら、《今日は死ぬのにもってこいの日》という曲も生まれなかったでしょう。
また、金関先生については、なにか書き留めたいと思ってますーー。
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by mamorufujieda
| 2006-07-29 12:31
| 近況